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yahoo知恵袋
2011 / 10 / 04 ( Tue )
初めに言っておく



あーなんかこの書き出しからちょっとまずいオーラ出てるかもw



まあいいや




あれで、あんま真に受ける感じじゃなくて興味本位で見る感じで




あーでもこういう感じの方がまずい気がするなぁ






まあ



いいや





とりあえず




今日Yahoo知恵袋で



最初に見たのが
子供を産むことはあまりにも非合理的で非理性的な行為ではありませんか?
子供を産むことはあまりにも非合理的で非理性的な行為ではありませんか? 意志のない生を無作為に産みだすことは生に対してあまりにも無責任であり、
逆に生を産んだ親は生に対して重い責任に絡め取られてしまいます。
子供を作ることは結局誰も望むべく結果ではなく無責任と責任しか残らない非合理的な行為ではありませんか?
ここで「愛」だとか生物的役割という回答が出てくるでしょうが、それはあまりにも思考停止だと思います。
結局それらの理論を解釈せずに本能に身を任せるならそれは人間ではないでしょう。
子供は社会的所産であるという回答も同様です。他者や社会の為の生命ならそれは奴隷と変わりません。
どなたか僕の質問に明確な回答をお願いします。




>1.生まれる前の子供にいかにして「生まれるか否か」の意思確認ができるというのか。
生まれる前の子供(受精卵になる前、あるいはそれ以前、この世に生命として存在する以前の段階)には意思確認が出来ない。意思確認が出来るとしても(意志そのものを持つとしても)、生命として発生・存在するようになった後である。また、生命として発生した後も、子宮から出るか否かの判断に必要な言葉や外界(胎外)の状況など様々な客観情報を生まれる前の子供に完璧に理解させ、本人だけで判断させることは現状不可能である。人生の全てをまだ見たことも経験したこともない段階で重要な判断させられる子供にとっても、非常に困難な回答を求められることになる。
つまり、そもそも誕生するか否かを自分の意思だけで判断すべき(=誕生するか否かを親や他人が決めるべきでない)という誕生論自体が机上の空論にすぎない。架空のできもしない手順・方法を夢想して要求している非論理的・現実無視の想定にすぎない。また「個人の自由意志の尊重」という考え方は、子供だけでなく親にも同等に適用されるため、「子供を作りたい」という親の自由意志を拒む根拠にはならないし、未だ生命として存在しない者(つまり自由意志すら存在しない段階)で、事前に未来の生命の意志を汲むことは不可能であり、存在しないものを汲むことは「自由意志を尊重する」という考えにすらあてはまらない。


2.自分で判断すれば責任を負えるのか。
果たして我々は、自分でやったこと、決めたことの責任なら何でも全て取ることができるのか。例えば、怒りにまかせて他人を殺しても、自分ではその原状回復(相手を生き返らせることや相手が奪われた分の時間や記憶を取り戻すこと)さえできない。賠償金や刑期、あるいは罪を悔いた自殺とは、完全な責任を取れない現状における単なる「代替行為」でしかなく、完全に責任を取ることなど不可能である。
我々が負う自己責任とは、あくまで部分的なものであり、他人からのある程度の許容やあきらめなしには成立しないものである。


3.そもそも、純粋な自分の意思など存在しない。
DNAの研究の中に双子の研究と言われるものがある。生まれてすぐに別々の環境で育てられ、互いに全く関わりを持たず、自由意志によって自分の人生を選択してきたと思っていた双子が、実は驚くほど似た人生を歩んでいることがある。その他にも様々な点から、我々が自由意志だと思っている自分の意志決定が、実はDNAによってかなり影響され介入されていることが言われている。つまり、完全に純粋な自分の自由意志など、そもそも我々には無いのだ。今こうして考えている内容でさえ(もちろん私だけでなくアナタの考えも)、ある程度はDNAの影響を免れてはいないだろう。
DNAはもちろん私たち個人が自分の意思で設計したものでも作ったものでもない。いわば「自然」という、自分個人とは別の存在が長年かかって作りあげてきたものある。我々はどこまで行ってもその「自然」の産物・一部であり、動物の一種であり、その仕組みを分与され踏襲した存在である。決してそれ以外の何か、ではない。人間固有の優れた能力はあくまで種族特有のオプションでしかなく、オプション以外の基本部分の本能や仕組みが無くなったわけではない。そのオプションさえ自然の産物である。我々自身が「そういう存在であること」を否定すれば、それは自己否定になる。自己否定が果たして、そのような存在として生まれた我々にとって”合理的判断”なのか。そもそも、生と死という二つの選択肢しか与えられていないこと自体が、私たちに完全な自由が無いことの証明である。我々は自分が決めたわけでもないのに、生か死かの二択しか選べない。我々の自由とは、「決められた世界の中の、限られた自由」であり、それ以上を求める無知や傲慢におちいれば(これすらもDNAの影響かもしれないが)、自然界やその一部である自己存在との矛盾として、余計強いストレスを感じる結果になるだろう。

我々は、他者との影響の中で、いかに生きていくかを考えるべきである。











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なんで人を殺すのは悪いことなのですか?

自分がされたら嫌だからとかいう意見もありますが、なんだか納得できません。 その理屈でいくと、人生に絶望して死にたがっている人に頼まれて命を奪うことは悪いことではなくなってしまうし…。でも実際は法律で罰せられるんですよね?
小さい頃から気になっていたことなんですが、納得できる答えが未だ見つかりません。

あと、なぜ人の命に限られてしまうのでしょうか。その人の未来を奪うのが悪いんだとしたら、他の生き物(動物とか)の未来を奪うのも悪いことになるのでは?
勿論人が生きるのに生き物を殺すのは仕方ないことだし、自然の摂理(?)だと思います。


殺されるのは私も嫌だし、殺人を肯定する気はこれっぽっちもありませんが、なぜ悪いこととされるのかわかりません。
回答お願いします。




kabukiage001さん

たぶん「悪い」という言葉自体を、質問者さんが誤解されているのだと思います。もちろん質問者さんだけではなく、多くの人は「悪い」という言葉や「善悪」というものを、何か根源的で、人間の枠を超えた、元々宇宙の基本原理としてあるような、そういうものと思っているでしょう。子供の頃、そう教えられた人もいるかもしれません。実際、一部の宗教では善悪は神が決めたこととしている場合もあります。

しかし、実際には善悪は人間が決めているものです。ですから今のところ人間しか理解していないし、人間にしか通用しません。善悪がもし人間の枠組みを越えた、宇宙の基本原理なら、他の動物たちも当然それを知っていて守ったりするはずですが、実際は他の動物たちには人間の善悪は全く通用しません。他の動物たちは善悪などという概念の存在すら知らないでしょう。彼らはもっと本能や感情的なものに従っているのみです。他の動物たちは自分が生きるためなら平気で他者を殺して食べたりします。逆に腹が減っていなければ、面倒臭いので狩りをサボることもあるでしょう。人間だって実はそうです。つまり、人間の言う善悪とは、それを言う社会(国や宗教組織)に都合のいいように決められたルールに過ぎません。ですから国や宗教によって、殺していいものも違うのです。自分たちにとって都合のいい殺戮(例えば、食用動物や害虫の屠殺や、戦争における敵の殺害、正当防衛や重犯罪者の射殺・死刑など)は許容しているのです。

「悪い」とはつまり、社会を維持するのに都合が悪いから「悪い」のです。そりゃそうでしょう、社会の中で他人を殺してもOKにしたら、秩序は崩壊し、社会自体の人数が減り、国力は衰え、他国に何かされても自国を守ることすらできなくなります。

本来は個人にとっての「悪いこと」は、「悪いこと」とは言わずに「嫌なこと」と言うべきです。僕が殺されるのがイヤなのは、それが悪いからではなく、イヤだからです。あなただって、イヤでしょう。みんな(その集団の主流派)がイヤなことを、その社会・組織にとって「悪いこと」と決めている、そういうことです。

ちなみに、人生に絶望して死にたがっている人に頼まれて命を奪うことは、今の日本の社会的には「悪いこと」に属します。死にはいろいろ微妙なケース(本人の意識が無い状態での尊厳死とか)があるので、バカでも子供でも分かりやすいように殺人はとにかく不可ってことにしているのです。(ただし正当防衛はその限りでなかったり、法律に従った死刑はOKだったり、他国が攻めてきた場合の反撃はOKだったりします。とにかく殺人はダメなんて言っても、実際にはいろいろ例外規定があるってことです。)

ただし、絶望して死にたがっている人に頼まれて命を奪うことが、自分にとって「イヤなこと」とは限りません。例えばその人が、様々な専門家に手を尽くしてもらっても助からないような不治の病で、とても身体が痛くて苦しんでいて、僕がその人をとても愛していて、その人が「あなたに殺して欲しい、あなたの手で楽にして欲しい」と言ったら、僕はもしかしたら法律なんか破ってでも殺してあげるかもしれません。それぐらいの気概は人間持っててもいい気がします。(映画『ミリオンダラーベイビー』では、クリントイーストウッドが愛弟子の死を手助けしてあげます。あれは法律的には”悪”かもしれませんが、あの行為を責める気には、僕はなれないですね。)もちろん他人の命を奪うわけですから、勝手な自分の勘違いで殺すようなことがないよう、必ず本人に本心かどうかを十分確認した上でですが。(たまに止めて欲しいとか、気を引くためだけに殺してなんて言うバカもいるので。)

ただ、僕は法律やルールによって守られる平常時の社会の平和、というのも理解しているつもりです。それはそれで大事だと思います。上記のような状況は非常に特異な状況なので、法律を杓子定規に適用しようとしても全てのケースにはうまくはまらないのだと思います。ですから、僕の行為を法的にどう判断するかは他者に任せるでしょうし、それが罪だと言うなら甘んじて罰を受けるでしょう。内心、決して後悔はしないでしょうけれど。(実際、恐らく情状酌量の余地ありとして、減刑されたり執行猶予がつくケースもあるかもしれません。法律も実際の運用においては、意外と柔軟なのです。)



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とか見て


これ見てちょっとこの人に興味わいてみたけど


ってかもう携帯の履歴消えててほとんど似てる感じの解答拾ってくるけど








kabukiage001さん

実際におっしゃるように哲学者にウツ病が多いのかどうかは知りませんが、もしそうならという予想で書きます。(以下、あくまで僕の私的な考えです。)

恐らく、哲学者は「一つのことを、ずっと考え続けることが多いから」ではないでしょうか。
人間の脳というのは、一つのこと、しかも何の進展もなくループするような思考をずっと続けるのがあまり得意ではありません。人間の脳は思考回路とかニューロンネットワークと言われるように、ネットワーク状の回路のようになっており、その回路に化学反応による微弱電流が流れることで思考を生んでいます。1つのことに考えが留まるということは、ネットワークの中の特定のルートだけに強い負荷が長時間かかり続けるということです。弱い負荷であれば長時間かかっても比較的耐えられますが(むしろよく使う回路は太くなったりするようですが)、強い負荷(強いストレスを伴う思考など)が一気に長時間続くと、頭が熱くボーっとしたりして、そのルートから思考が抜け出せなくなり、しまいには電気回路で言うところのショートみたいなことがニューロンネットワークに起こるのではないかと僕個人は思っています。(あくまで僕自身の経験からの予想です。)

こうした状態になると、ウツ病や統合失調症、パニック障害など、様々な思考上の疾患の原因になります。
ウツ病の場合、なんらかの失望やイヤな経験によるストレスを抱えている場合が多いようです。ウツ病は男性より女性に多い病気ですが、これは女性ホルモンが記憶力をよくする作用がある(つまり、イヤな記憶もなかなか忘れることができない)ために、ずっと一つのことを考え続けてしまうことが原因ではないかと思います。哲学者は1つの難解・解決不能なテーマについてずっと考え続けるということが仕事柄多いでしょうし、そういう思考傾向を持った人が哲学者になることが多いでしょうから、それが哲学者にウツ病が多い原因になっている可能性はあると思います。

本来、私たちは、こうした人間の脳の性能限界というか性質を理解した上で、自分の身体を使わなければなりませんが、そこら辺はまだ十分理解されているとは言えないのも事実でしょう。
ちなみに、ウツ病はあくまで肉体的な疾患だと僕は思っています。原因は上記のように精神的なストレスによるものであったとしても、それが物理的な左脳血流の低下やセロトニン機能失調という状態を生んで、自律神経の失調へとつながっていくものと思います。ウツ病の症状である、ネガティブな思考・感情、寂しさなどは大脳の失調によるもの、不眠、集中力や根気の低下、身体のダルさ、などは大脳の下位の自律神経の失調によるものと思います。中には精神的原因でなく、交通事故などによる頚椎(自律神経)のケガが原因でウツ病と同じような症状になる人もいるそうです。

精神的な原因でなった場合、むろん同じ思考を繰り返せば原因を断つことができませんから、認知行動療法などなんらかの思考改善をしていく必要はあるでしょう。しかし、その改善が済んだり、仕事を辞めたりしてストレスの原因が無くなっても、ウツ病の症状だけが身体に残り続け、患者は何年単位で苦しめられる場合も少なくありません。神経系の病気というのは、完治に非常に時間がかかり、リハビリ期間も必要なようです。

私たちが普段いろいろなことを考えていく上でも、人間の脳の性能限界ということは、常に頭のどっかに置いておいた方がいいと思います。適度に休憩を取ったり、しばらく考えたら身体を動かすことに切り替えたり、一旦「保留」にしてしまったりして、あんまり答えの出ないようなことを根つめて考えないようには注意した方がよいと思います。






いたね




多分俺とほぼ同じ経験をしてる人が




鬱を超えた人が



とか言ってるのがちょっと危ういけどw


まあ




恐らく、哲学者は「一つのことを、ずっと考え続けることが多いから」ではないでしょうか。
人間の脳というのは、一つのこと、しかも何の進展もなくループするような思考をずっと続けるのがあまり得意ではありません。人間の脳は思考回路とかニューロンネットワークと言われるように、ネットワーク状の回路のようになっており、その回路に化学反応による微弱電流が流れることで思考を生んでいます。1つのことに考えが留まるということは、ネットワークの中の特定のルートだけに強い負荷が長時間かかり続けるということです。弱い負荷であれば長時間かかっても比較的耐えられますが(むしろよく使う回路は太くなったりするようですが)、強い負荷(強いストレスを伴う思考など)が一気に長時間続くと、頭が熱くボーっとしたりして、そのルートから思考が抜け出せなくなり、しまいには電気回路で言うところのショートみたいなことがニューロンネットワークに起こるのではないかと僕個人は思っています。(あくまで僕自身の経験からの予想です。)




これは俺も同意
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